親父 逝く ありがとう

2019/6/11(火)
九州福岡/晴れ

先週の6/7(金)父が他界しました。
去年、10月から入院生活が始まり、回復に向けて頑張っておりましたが、
6/7の朝、溶体が急変し、急性呼吸不全により、天寿を全うしました。
享年85歳でした。
6年前福岡に戻り、側にいること以外、何一つ親孝行らしいことは、できませんでした。
安らかに、息を引き取るときにも側にいれました。
これもひとえに、皆様方のおかげと、心より、お礼申し上げます。

父は、九州福岡、三潴郡三潴町生まれ。
宮崎県都城市高城町から、久留米絣の工場へ、丁稚奉公に来た祖父が、一代で「柿木商店」という織物の工場を建てた頃、6人兄弟の長男として、生まれました。
戦後、の不況で3件の保証人となっていた祖父は、工場を持っていかれ、大きな借金を抱え、宮崎に戻ります。
倒産当時、中央大学経済学部一年だった父は、大学を中退し、福岡へもどり、兄弟で土方で借金を返していきながら、知り合いの伝手で東京神田本社を構えるの企業宣伝用の鉛筆会社へと就職。
東京で営業マンとして基礎となる時期を過ごし、段々と注文を賜るようになり、頭角を現し、九州支社を任され、福岡へ戻る。その頃、母と結婚し、姉が生まれる。
九州での仕事がはじめはうまく行かず、栄養失調が原因で、肺結核となったとき、自分が生まれる。当時は、死ぬか生きるかの手術を乗り越え、会社に復帰。
快進撃が始まる。
日本全体が、経済成長期から、バブル期へと向かっていた。
企業宣伝用の商品が面白いように売れ始めた。
東京本社から独立し、団地から、家を建て、自社ビルも博多駅前に建築し、大成功を収める。
その頃、音楽の道を志そうとしていた私は、大学を卒業し、父の会社を手伝いながら、バンド活動をする。3年目に両立できず、父の会社をやめ、3年の約束で、音楽の道を進む。そして、その約束を、もう3年、もう3年と、延長し、現在に至る。
絵に描いたようなバカ息子である。
我が家の心配の種。
ムーン・ビームで、上京した時も、年に2.3度、ツアーで福岡へ戻った時も、「どげんか、食えるとか、音楽で、生活できるとか、もう、やめて帰ってこい」と、母同様、いつも、心配してくれた。その当時は、上京したからには、成功するまでは、、成功しなくても、、、もう、戻れないと、腹をくくっていた。
小さな頃から、言われていた。
「お父さんの跡を継ぐっちゃろ」と。
はじめは、言われて嬉しかったが、段々と、自分の未来がもうすでに決まっているような閉塞感がしていた。なにか俺も、オヤジのようにできることは、あるんじゃないかと。
学校の音楽は、好きではなかったが、姉の影響で、ビートルズ、ベイ シティ ローラーズ、ジェフベック、等、を小学校の時、聞き始め、中学校1年で、はじめてバンドのライブを見に行く。大音量で聞くステージは、「こわい、けど、かっこいい」。
すぐ、お年玉をかき集め、岩田屋の楽器店で、エレキギターを購入。19000円。
何年かは、チューニングのやり方を知らず、エアーギターで、満足してた。
多分、一番、音楽の道を志すきっかけになったのは、中学浪人という一年を過ごした。
世は、受験戦争が始まっていた世代。
家も、裕福になるに従って、塾、家庭教師、と、お坊ちゃんの仲間入り。
行きたい私立高校があったものの、不合格。
公立も落ち、2次試験も落ちる。「終わった」と思った。プライドも何もあったもんじゃない。友達にも会えない。自分への恥ずかしさが暴れだしていた。
父「大阪の知り合いの工場へ就職するか」
泣いて、「もう一度、受験させてください」と、頼んだ。
中学浪人生のための寮に入る。
姉から、届くカセットテープ。
ウオークマンで聞く時間が、現実から離れることができた。
こんな自分でも、音楽に救われた瞬間だったと思う。
夏になる。
5.6人いた寮のみんなとも仲良くなりすぎる。
これじゃいかん。
成績も一向に伸びない。
スイッチが入る。
寮を出る。
家に戻り、勉強する。
見守る父母。
夕方、ひとつ下の学年に交じり、同じ塾通う。
声が聞こえてくるが、自業自得、気にする時間はなかった。
成績が上がり始める。
志望校に、合格。
喜んでくれた。
父、母、姉。

社会、家族、個人。
それぞれが織りなす出来事。
父は、いつも、一家の重しとなり、じっと耐え忍び、自分を見てくれていた。
父という重しがあるから、音楽という芸術の世界を自分なりに見ることができた。
今いる自分の生活、全てにおいて、父がいたからこそ、できることばかりだった。

去年10月脳梗塞で入院生活が始まり、3回病院が変わり、回復に向けて頑張っていた。ツアーの日以外、ほぼ毎日、面会へいき、固まり始める体をほぐしに行く。親父の体を触りまくった。気持ちよさそうな顔のときや、「うー、あー、」とか、言ってくれるのが、嬉しかった。先生から、「状態が安定してきましたよ」と言われて安心していた矢先だった。、

6/7、朝、「溶体が急変しました。危篤状態です。」と、病院から電話。
神戸の姉に、連絡。
うろたえる母と、病院へ。
着いたときは、まだ、呼吸は、しっかりしていた。
「親父」「親父」
しか、言葉が出ない。
手を握る。
足を擦る。
呼吸が、薄くなってくる。
止まる。
そして、また、呼吸。
止まる、
そして、また、呼吸し始める。
間隔が、だんだん、開きはじめる。
「親父」
「ありがとう」
「大好きだよ」

安らかに息を引き取る。

先生が入ってくる。
10:13
ご臨終です。

母は、ずっと、手を握り続ける。
父の背中に手を入れながら、
「まだ、温かいよ」と、いう。

博多駅に着いた姉を迎えに行く。

一年前、親父が検査にいくというので、車で送った。
「一宏、死んだら、どうなるんかねー、死後の世界ってあるんかねー」
「あるとかねー、わからん」
「飯、食おう」と、いきなり父。
とんかつ屋へ入った。
腹いっぱい。

親父、ありがとう。
今度は、俺が重しになる番やね。
本当にありがとうございました。
今からは、心の重しでいてください。
ありがとう。



















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2 Responses to 親父 逝く ありがとう

  1. sachiko says:

    お父様のご冥福お祈りします。
    国富ライブキャンセルとの事だったので、心配していました。

    カッキンの文書から愛情たっぷりのご家庭で育ってこられたから、今のカッキンの人脈や人の良さがあるのだと思いました。

    人の命はほんとにはかないものですね。
    カッキンも、どうぞ気を落とさないで、しっかり食べて、寝て、これからは、自身の家族とお母様と沢山思い出を作っていくと良いと思います。
    これからの活躍を陰ながら楽しみにしています。

    • kakkin says:

      sachiko様

      コメントありがとう。
      まだ、思い出すと、涙が溢れ出す時もあります。
      ドブロックは、出れませんでしたが、
      早くも、福岡、長崎、佐賀でライブしました。
      忙しくしている方が、いいのかな~。
      お気づきありがとう。
      皆様によろしくお伝えください。
      また、歌いに行きます。

      Kakkin

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